本文の先頭へ
200405nagoya
Home 検索

名古屋コラム

郵政首切り25年・名古屋哲一の月刊エッセイ

 森田秀幸の人生は幸福だった

万物流転。ボクの瞳は遙か昔に流星を構成していた元素で作られているのかもしれないし、あなたが今飲んだお酒は少し前までゴキブリの糞を構成していた粒子で作られているのかもしれない。死んだ人の魂は、天国へも地獄へも行かないだろう。ジョンとヨーコ共作の「イマジン」が語るとおり、天国も地獄も存在しないからだ。魂=脳を構成していた物質は、地球生態系や宇宙物質循環のなかへ供給される。「人は土に還る」。しかし、魂は遺された者の内に生き続け、その足跡はこの社会の歴史に刻まれているので、死んだ人は今後も活動し発展・飛躍することさえも可能なのだ。

       *       *       *       *

 この一年の間に郵政ユニオンの仲間3人が死去し、つい最近、宮城の仲間も、「全国労組連」の時代に事務局長として色々な事を教えてくれた仲間も亡くなった。出会いと別れ、人の命の尊さとはかなさ、運命、無常、悲しみ・・・。

 森田秀幸は、4月23日、心アミロイドーシスという2万人に一人の難病で死んだ。1976年にボクが26歳で八王子郵便局へ入局したとき、一学年下の彼は隣接市の多摩郵便局で既に郵便屋さんをやっていた。だから28年間の付き合いになる。79年に4・28処分でボクが首切りをされて以降、25年間ずっと支援をし続けてくれた。というよりも、「支援する・される」などとは互いに意識したことはなく、一緒に悪い奴らと対抗し続けたという感覚だ。郵政官僚や全逓官僚といった悪い奴らに対して、いうよりも、世界中の悪い奴ら全般に対して、同じ全逓東京多摩地区の青年部員として、というよりも、同じ世直しを切望するグループの仲間として知り合ってから、今日までずっとずっと、変心もいがみ合いもなく安心して傍らに居続けた。今まで当然のこととして意識する事はなかったが、そんな友がいたという事は幸せな事なのだったと、失ってから気付くのだ。

1969年ベトナム反戦の時代、高校を卒業して北海道十勝の農村を飛び出した森田は多摩郵便局に就職した。「スポーツ万能・万年青年の秀幸さんは、ワンパク坊主だったんでしょう?」と、葬儀の時ボクはお母さんに尋ねた。「いいえェ、特にスポーツが得意なわけでもなく目立たない子でしたよ。ただ小さい頃から物事をヤリトゲル子でね。東京へ行くとき、ちゃんとできるか、と聞いたら、ちゃんとやる、と答えたのでね。だから、ヤリトゲルと、安心して送り出したのですよ」と息子を少し誇らしげに母は語った。お父さんも席上の挨拶で「皆さんにこんなに良くされて。愛されていたのを知って本当に嬉しかった」と語った。

 森田は、管理統制されるのは大嫌いで、それ以上に、人を管理統制するのは全く似つかわしくなく、それで当然にも「権利の全逓」に入った。いつもニコニコ冗談いっぱい、楽しいこと大好き、時々メチャクチャの大真面目、それで当然にも「権利の全逓」に入った。郵政マル生で差別されるのを解っていながら、しかも第二組合が多数派の多摩局で。良いコンビ?トリオ?カルテット?の活動家群もつくられた。

 70年代後半当時、全国の多くの局で日常的に管理者との闘い・怒鳴り合いが繰り広げられていた。森田はその先頭に立ち、他方で、本気で三里塚空港を廃港にし自民党政府を倒そうと活動していた。森田は何でも本気なのだった。理論派ではなく感覚派だった。大言壮語は嫌いだった。表裏がなさすぎる人だった。解りやすい人だった。不正義がまかり通るのを見過ごすという発想自体を欠落させていた。本気ということは、逮捕覚悟で身体を張り全て投げ打ってということだ。根底には、土地を奪われるお百姓さんなど、虐げられている人々への優しさがあった。

 4・28処分後、ボクは森田のいる「多摩・稲城・日野支部」配置になり、森田の主導するキャンプファイアー組合レクでギターを鳴らした。森田のミュージックはセミプロで、地域の郵政の仲間と作ったフォークソンググループも続け、またテニス等々にも才能を発揮していた。85年にボクが全国労組連事務局となり都内を中心に動くようになって会う機会は減ったとはいえ、たいして変化はなかった。森田は、三多摩ピースサイクルの事務局長で(ボクは小学生の息子・拓真ちゃんとお友達になった・・・今彼は24歳、弟共に「立派に自立」と妻の英子さんが言っていた)、また全国ピースやフィリピンピースで活躍していたし、フィリピン「従軍慰安婦」問題の「ロラの会」へ傾注した。89年全逓からの独立労組結成から最近は郵政ユニオン多摩地方支部長。ユニオンスキーレクではトップの滑りを見せ、ボクへの指導は「名古屋!突っ込め、突っ込め!」とだけの最も解りやすいスキーの先生だった。多摩局の仲間との焼津港釣りツアー、東京湾でビール片手の「二人だけの内緒の釣り」でも先生だった。郵政省への4・28抗議行動では、鉄門を乗り越えた「伝説の突入3戦士」の一人であり、物販は毎回必ず取り組んでくれたが、商品説明ではなく4・28闘争の説明からコンコンと話すので販売の「営業成績」は良くなかった。

「うまく立ち回る」選択をしなかった人生、「うまく立ち回る」選択があることさえ考慮しなかった人生、考慮せずにいられた人生、だったのではないだろうか。天真爛漫。森田の人生は幸福だったのだと思う。 

名古屋哲一(郵政4・28免職者)

郵政九州労組・郵政近畿労組吹田千里支部「機関紙4月末号」掲載

*タイトルはレイバーネット編集部


Created byStaff. Created on 2005-09-04 20:41:06 / Last modified on 2005-09-29 06:44:52 Copyright: Default

このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について