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黒鉄好のレイバーコラム「時事寸評」・第13回
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第13回 官邸前金曜行動が進めた新しい社会への偉大な一歩

 ●見まがう光景

 インターネット中継でその光景を見たとき、私はそれが日本の出来事だとはにわかに信じられなかった。人々が完全に一帯を占拠し、広場状態になっている。昨年春のタハリール広場かウォール街占拠運動の動画が間違って配信されてきたのかと思ったほどだ。しかし、プラカードには日本語が書かれ、音声からも私が理解できる言葉が聞こえてくる。そうか、ついに日本の市民も快挙を成し遂げたのだな、と思った。

 それまでの私は、日本でこんな形のデモなんて二度と起きないと思いこんでいた。安保闘争などの政治の季節が去り、学生運動に暴力が持ち込まれることで深く傷ついた日本の市民の多くがもう政治はこりごりだと思っているに違いないと勝手に解釈していた。それだけにこのとてつもない人数は私にとっても驚天動地の出来事だ。

 6月29日の行動参加者数は、最も少ない警察発表でさえ2万人で、20万人がいたとする説もある。私は現場にいなかったので、インターネット中継に映っている範囲の人数しか確認できないが、20万人はゲタを履かせすぎではないかと思う反面、「画面に映ったのは氷山の一角で、本当はもう一桁多い人たちがこの背後にいる。ネット中継を見て、仕事帰りに行こうと思えばすぐ行ける東京の人たちをうらやましいと思いながら、参加できないことを悔しく思う人はさらに一桁多くいるのだろう」と想像するだけで楽しくなった。

 もちろん、筆者がかねてから指摘してきたように、運動は単純に数が集まればよいというものではない。加盟800万人を誇りながら、結成以来後退に次ぐ後退を続けてきた「連合」などがよい例だ。動員費をもらい、指示されて参加し、権力に押し切られて反対していたことが決まると「やっぱり今回もダメだったね」と言いながら帰って行く運動では明日を切り開くことはできない。自分の頭で考え、自分で創意工夫を凝らして表現し、現場では精いっぱい行動する。そのことが自分自身を政治的に打ち鍛え、明日への展望を切り開くのだ。

 官邸前に詰めかけた10万を超える人並み、そして決まった曜日に決まった場所で行動を定例化することで、行動そのものの知名度を上げ、参加者が倍々どころか3倍ゲームで増えていく様子を見て、ふと私が思い出したのが、旧東ドイツの「月曜デモ」だった。

 ●旧東ドイツ「月曜デモ」とは

 旧東ドイツの首都ベルリンから南に150キロ離れたライプチヒで「月曜デモ」が始まったのは1982年のことだった。統制の強い東ドイツの中でも比較的自由だった教会を拠点として、はじめは自由選挙(官選候補の信任投票でない)や旅行の自由を求めて始まったこの月曜デモの最初の参加者は数十人。その後、増減を繰り返しながら、多いときでも数百人規模で、あまりの規模の小ささに当局からは黙殺された。

 しかし、1989年、東ヨーロッパの社会主義(に名を借りた官僚独裁)が次々に市民デモによって揺らぎ始めると、月曜デモは瞬く間に参加者を増やし、数万人規模にふくれあがった(注)。

 転機となったのは、1989年10月9日。この日のデモ参加者は7万人に上ると見込まれていた。毎週続く大規模なデモは、最高指導者だったエーリッヒ・ホーネッカー(社会主義統一党書記長兼国家評議会議長)をひどく怒らせた。ホーネッカーは、ライプチヒの党幹部に「デモには断固たる姿勢を示せ」と弾圧を指示した。しかし、ライプチヒの党幹部は数時間に及ぶ激しい議論の末、デモを弾圧しないとの結論に至る。当時、ライプチヒの党幹部だった人物は「暴力によってしか守れない国家体制なら守る意味がない」と覚悟を決めたのだという。

 一部の党幹部は、ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったクルト・マズアと連名で「市民への手紙」を起草した。自分たちがベルリンの中央政府との対話の実現に向けて努力するので、市民は暴力を控えるように訴える内容だった。

 この手紙には、マズアの手によって「廃墟からの復活」という曲の楽譜が添えられた。東ドイツ国歌であるこの曲の歌詞には、失ってしまうにはあまりにも惜しい感動的な一節がある。「われら兄弟団結すれば人民の敵は打ち負かされる/平和の光を輝かせよう/母親が二度と息子の死を悼まずにすむように」。人類史上最悪のホロコーストを生んだナチスと第二次世界大戦への強烈な反省が、そこには込められている。

 夜、ニコライ教会を出た7万人のデモ隊は、治安警察や軍の地方本部前を通過しながら「我々が人民だ!」と叫ぶ。表向きは人民のための党、政府、軍、警察とされていたことを念頭に置き、「人民のためというなら我々を支持せよ」との強いメッセージだった。軍・警察に対する弾圧命令はついに最後まで来なかった。デモ隊は、逮捕者もけが人も「息子の死を悼む母親」もひとりも生むことなく、出発地であるニコライ教会に帰還した。

 「デモが何事もなく、環状道路を1周してニコライ教会に戻ってきたとき、この国は、数時間前とは別の国になっていました。あれは、市民が非暴力で成し遂げた初めての“革命”だったのです」と、ニコライ教会牧師クリスチャン・フューラーは述懐する。どんなに支持が少なくても自分の政治的な力を信じ、1982年から粘り強く続けられてきた月曜デモは、8年目にして最高潮に達した。そして、この歴史的なデモの成功からわずか9日後の1989年10月18日――13年間権勢をふるい続けてきたホーネッカーは、失脚した。

注)東西統一後のドイツで好評を博した映画「グッバイ・レーニン」でも、デモに参加している息子が警官隊ともみ合う姿を見て、熱心な社会主義統一党員であった母親がショックのあまり心不全の発作を起こし卒倒する様子がコミカルに描かれている。

 ●今後に向けて

 はじめは数十人の参加者しかなかった旧東ドイツの月曜デモが7万人に達した背景に東ヨーロッパ諸国の民主化の動きがあったように、あるひとつの社会の闘いは国際情勢に大きく規定される。今回の官邸前金曜行動に付けられた「紫陽花革命」の名称が、昨年、独裁政権があちこちで倒れた中東諸国のジャスミン革命からきているのは疑いがないが、今回の官邸前行動が真に革命(支配者と被支配者の逆転)といえるかどうかは慎重に検討する必要があろう。

 当然のことだが、フランス革命やロシア革命を、私たちが迷うことなく革命と認識できるのは、私たちがそれらの出来事から数百年後の時代を生きているからである。あの時代、当の出来事の渦中にいた人たちが、それが後世に革命と規定されるかどうかその時点ではわからなかったように、私たちも今すぐその結論を出す必要はない。それを決めるのは後世の歴史家の仕事であって私たちの仕事ではない。それよりも、数百年後の歴史家から正当な評価を受けられるよう、明日に向けて運動を強化することのほうがずっと重要である。

 さしあたり、論争となっているいくつかの点について意見を表明しておく必要がある。まず主催者が混乱を恐れて行動を予定より早めに打ち切り、解散指示を出したことについては、私はこれでいいと思っている。私たちの行動が混乱したり、けが人を出したりして失敗することを望んでいる者たちがいる。主催者の言うように、無理に瞬発力を出して次の機会を失うよりも、今は粘り強く何度でも行動を続けてみずからを政治的に鍛える時だ。ライプチヒの市民が8年間ずっと行動し続けたように。

 主催者が労働組合はじめ「反原発以外を内容とする旗やのぼり」を禁止したことに対し、特に熱心に労働運動をしてきた活動家から感情的に近い反発が出ていることについては、粘り強く対話をしていくしかない。残念ながら、私自身、多くの若者(非正規労働者が中心)から「大手組合、企業別労組ほど私たちを見捨てて助けてくれなかった」という話を嫌というほど聞かされてきた。総評労働運動の中核的組合といわれた組織の末席に今も身を置き、そのことを誇りに思ってきた私ですら、若者の前で所属組合を名乗ることをためらってしまう。多くの若者にとって労働組合の評価は良くて右翼と同等か、悪ければそれ以下だというのが私の率直な皮膚感覚である。「日の丸は禁止されないのに労働組合の旗は禁止」となった背景を、このようにすればうまく説明できる。労働組合側がそのことをまず自覚してからでなければ、冷静な、実のある議論にはならないだろう。

 だからといって、既存労組側が遠慮する必要はまったくない。主催者側にもきっと誤解がある。会社と一体化して原発を推進し、挙げ句の果てに「(原発推進というから支援したのに、反対を言いだして)裏切った議員には報いを受けてもらう」と、白昼公然と表明するような御用組合こそが労働組合だと思っているのかもしれない。首都圏青年ユニオンのように、若者、非正規労働者のために精いっぱい奮闘してきた労働組合もある。そうではないということを、主催者をはじめとする若者に伝えていく努力が必要だ。「困っているならいつでも力になるので協力し合おう」と若者に呼び掛けてみよう。どうせ人が多すぎて身動きできないのだから、官邸前で労働組合と若者との対話の場を設けてはどうだろう。

 日の丸を掲げて官邸前に来ている若者に対し、理由も説明せず掲げるな、降ろせなどと主張する気はないが、私自身は反対である。日の丸だからというのではない。どんなデザインの国旗であっても同じことである。最大にして最悪の国策である原発に反対するのに、国家を象徴するものを掲げるのは自己矛盾だということを彼らに説明し、気付かせる必要がある。「東ドイツは国歌の楽譜を入れたじゃないか」などと言うなかれ。戦争の反省の上に平和を願う歌詞を国歌の中に入れている労働者国家をその原点に戻そうとして起きたライプチヒのデモと、戦争の反省もせずアジア侵略当時と同じ旗を掲げながら、労働者を搾取するブルジョア国家を変えようとして起きている官邸前デモを同列に論ずることはできないのである。

 いずれにしても、これらは参加者がふくれあがってきた故に生まれてきたうれしい悩みというべきだ。主催者も参加者も互いに学びあいながら、かつてない政治的高揚の中で自らを鍛え、大きな飛躍を遂げよう。「デモが何事もなく成功したとき、この国は、数時間前とは別の国になっていました」。数十年後、「あの時の官邸前」を振り返り、私たち日本の市民が、胸を張ってそう言える日が来るように。

<参考資料>
 このコラムの執筆に当たっては、2008年1月12日に放送された「NHK-BSドキュメンタリー/証言でつづる現代史〜シリーズ・こうしてベルリンの壁は崩壊した〜ライプチヒ・市民たちの反乱」を参考にしました。

(黒鉄好・2012年7月7日)


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