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飛幡祐規 パリの窓から(14)「砂漠に種を蒔く」ージャスミン革命がもたらす希望
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  第14回・2011年1月23日掲載  

「砂漠に種を蒔く」ージャスミン革命がもたらす希望

 

*一部訂正があります。下段に追加

 現在、チュニジアで進行中のジャスミン革命は、歴史的な大事件だ。アラブ圏において初めて、民主主義国家の出現をよぶかもしれないのだから。刻々と状況が変化する現在進行中の出来事について書くのは難しいが、現在(2011年1月21日)までにフランスの報道や人々(この国にはチュニジアからの政治的亡命者をはじめ、移民・移住者が大勢いる)から得た情報をもとに、いくつか書き留めておきたい。なにしろ、今後の世界情勢に影響を与える重要な出来事であるとともに、久しぶりの明るいニュースなのだ。

腐敗した独裁政権に媚びつづけた「自由世界」

 チュニジアは1956年にフランスから独立、57年に共和国になったが、初期に近代化をもたらした初代ブルギバ大統領の専制政治は腐敗し、1987年にベンアリに解任された。1989年以来大統領の座に居すわりつづけたベンアリは、イスラム原理主義の脅威と闘うという大義名分のもとに、原理主義者の運動のみならずすべての政治的反対勢力、人権擁護運動、市民運動、労働組合など民主勢力を弾圧した。表現の自由の弾圧と報道の統制は近年ますます激化し、野党など反対勢力はほとんど力を奪われた。また、ベンアリ大統領の家族・親戚、とりわけ二度目の妻レイラ・トラベルシの一族は、マフィアのような手口で主要産業をつぎつぎと掌握し、富を貪るようになった。

 こうした状況は、フランスなどに亡命した活動家や知識人と人権擁護団体によって摘発されていたにもかかわらず、フランスをはじめ西洋の民主主義国は、ベンアリ政権がイスラム過激派とテロに対する砦であるとして、その反民主的な弾圧に対しても、閥族による腐敗政治と国富の強奪についても、目をつぶった。それどころか、近年のチュニジア経済は順調に発展していると、世界銀行や国際通貨基金から「模範生」の評価を受けている。世界経済フォーラムによる競争力のランクづけでは32位だ。GNPは2009年が3,1%、2010年は3,8%。インフレ率は約4,5%でエジプトの約半分と低い。

 一方、失業率は実際にはここ十年で急上昇したが、ベンアリ政権は14%を超える失業率の発表を阻止してきた、と亡命した経済学者は語っている。とりわけ、沿岸地帯から離れた中央部と南部では失業率が30〜40%に達する地域もあり、2008年に南東部のガフサでは抗議運動が広がった。また、GNPが上昇したのは事実だが、それは海外企業のオフショアとして、あるいは安い労働力を提供するコール・センター、民営化(その利益を大統領一族が強奪)、ヨーロッパに頼る観光産業などによるもので、構造的な経済発展ではなかった。近年、高学歴の若者が増えたのに対し、労働市場は低賃金の雇用しか提供できず、高学歴であるほど雇用が見つからない状況となった。民衆の蜂起の発端となった昨年12月17日に起きた焼身自殺が、26歳の高学歴の青年によるものだったことは、象徴的である。

 チュニジアにかぎらずアラブ諸国の強権政治に「自由世界」が目をつぶるのは、イスラムに対する妄想的な恐怖も大きな要素だが、資本家や企業にとっては、市民が人権を蹂躙されようが知ったことではなく、安い労働力と規制の緩い安定した社会が欲しいのである。それにしても醜いのは、これまでずっと、すこぶる友好的にベンアリを支持してきたフランス政府の態度である。12月からつづいた市民の運動に対しても沈黙しつづけ、警察の発砲による死者が大勢出てからはじめて「遺憾である」とのみ表明した。おまけに、ベンアリが逃亡する三日前、ミシェル・アリオ=マリ外相は「世界に定評のあるわが国の治安力のノウハウ」を(暴力がエスカレートしないよう)提供したいとまで言ったのだ。左翼から批判を受け、辞任を求める声も上がっているが、非を認めない。チュニジア市民はこのニュースを知って激しく怒った。

市民の不満の爆発と労働組合の役割、インターネットと軍隊

 チュニジアの南部と中部で始まった抗議デモは、首都チュニスと全国の都市に広がった。1か月でベンアリを失墜させたジャスミン革命の速い展開に、全世界だけでなくチュニジア市民自身も驚いているようだ。野党には運動を組織できるような力はなかったため、デモや集会で中心的な役割を果たしたのは、チュニジア唯一の労働組合の全国組織UGTT(全国チュニジア労働連合)である。

 1946年に発足したUGTTは独立以来、専制政治に対抗する勢力として成長したが、1970〜80年代に弾圧を受けて弱体化した。ベンアリが大統領に就任した1989年、UGTTの指導部は、政権との妥協路線と労使協調路線を選んだ。組合員や一部の幹部から批判を受けながらも、書記長は2009年にもベンアリの再選を支持したほどだ。しかし、90年代からしだいに教育、医療、郵便などいくつかの部門、また地方によっては政府を批判し、闘う組合がでてきた。2008年のガフサでの大きな抗議運動の後にその傾向はさらに高まり、今年1月初めの緊急総会では、地方ごとに交替でゼネストを行う決定が採決された。ベンアリ失墜後の暫定政府に抜擢されたUGTT組合員の3人は、与党RDC(立憲民主連合)メンバーの存在に反対して24時間後に辞職したが、そのひとりは、10年来の民営化政策に反対する反グローバリゼーション系経済学者である。

 ジャスミン革命は、富を一族で貪る政権に対して、物価の高騰と失業、自由の剥奪にあえぐ市民の怒りの爆発によってもたらされたといえるだろう。街に繰り出したのは主に中産階級だった。この革命について、フェースブックやツイッターなどソーシャルメディアの重要性が指摘されているが、インターネットが大きな役割を果たしたのはなによりまず、政権が公共メディアを独占・統制していたからである。テレビやラジオを聞いても本当の情報は得られないから、人々はアルジャジーラなどのアラブ語衛星放送とネットメディアを情報源にした。チュニジアでは人口(約1000万人)の34%がネットメディアのユーザーだという。ベンアリの一族による統制がとりわけ強まったこの十年間、検閲を受けにくい空間として、ネット上の討論や情報交換が(「自由世界」で多い誹謗中傷と自己満足ではなくて)市民の政治意識を高めたであろうことが推測できる。教育を受けたチュニジアの中産階級は、政権の思想統制の網をくぐってアンダーグラウンドの文化(音楽、演劇、ブログなど)を発達させていった。ブロガーのひとりは暫定政府の青少年・スポーツ担当に抜擢された。

 ベンアリの独裁政治は、与党RDC(この党を通さないと事業も就職もできない。党員数約200万人)と、警察・政治警察(18万人といわれていた)による統制の上に成り立っていた。一方、軍隊(約3万人)はあまり権限を与えられていなかった。抗議デモが全国に広まってゼネストが始まったとき、市民を銃で弾圧せよというベンアリの命令を陸軍の総司令官は拒み、1月9日に罷免された。1月14日のベンアリの逃亡までに何が起きたかは明らかでないが、軍隊が弾圧にまわらなかったことで、市民の運動はつぶされずにすんだ。

砂漠に蒔いた種

 臨時の大統領、首相をはじめ前大統領の与党RDCのメンバーが主要ポストを握る暫定政府に懐疑的な市民は、RDC の解散を求めてデモを繰り返している。この圧力のおかげでRDCの執行部は解散し、暫定政府はRDCと国家の分離、政治犯全員の釈放、禁止されていた党の合法化などを決めた。野党の指導者やジャーナリストなど海外に亡命した人々が、続々と帰国している。

 フランスの国営ラジオでは1月21日、チュニジアから実況でジャスミン革命の特別番組を放映した。自由に話せる歓びに震え、エネルギーがはじけるようなチュニジア市民の生の声が聞こえてきた。これから民主主義国家を築き、より公平な富の再分配をめざして経済を立て直すのは大仕事だろう。旧勢力やあらたな専制的勢力に、再び権力を掌握される怖れもある。でも今のところ、このジャスミン革命には、チュニジア市民の成熟さがあらわれているようにわたしは感じる。大勢の女性が運動に参加している点にも注目したい。

 最後に、亡命先のパリからチュニスに戻り、次回の大統領選に立候補した「共和国のための会議」党のモンセフ・マルズキ(1945年生まれ)の言葉を紹介しよう。1980年からチュニジアの人権同盟で活動していた彼は、たび重なる弾圧を受けた。昨年の5月にパリで、あるジャーナリストがマルズキに訊ねた。「チュニジアの政治情勢はこんなにも暗いのに、あなたはなぜそんなに前向きでいられるのですか?」彼は次のように答えた。「私は南の出身で、祖父が砂漠に種を蒔くのを見て育ちました。種を蒔いて待つ。雨が降れば植物が育つ。だから、砂漠であろうと種を蒔かなくてはならないのです。あした雨が降れば、すばらしい。でも、すぐに降らなくても種がそこにあれば、いつか雨が降ったときに芽を出して育ちます。何もなければ何も育たない。砂漠に種を蒔くーーこの態度で私はすべてに臨むことにしています」。(インターネット新聞メディアパルトのフランソワ・ジェズ氏のブログから引用・訳)

2011/1/21 飛幡祐規(たかはたゆうき)

*写真=フランスの新聞「リベラシオン」紙2011年1月15日の表紙。女性が掲げている紙には「ベンアリ、とっとと消え失せろ!」 アラブ語は「自由」

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訂正

1月21日付けのコラムの中で、「民衆の蜂起の発端となった昨年12月17日に起きた焼身自殺が、26歳の高学歴の青年によるものだった」と書いたが、「高学歴」という報道は誤りだった。モハメッド・ブアジジが焼身自殺した町、シディ・ブジドを訪ねたリベラシオン紙記者のルポ(2月5-6日付け)によると、彼は高校を卒業したが、貧しさゆえに高等教育をあきらめて野菜・果物売りになった。自殺した日、彼は市の職員に売り物と秤を没収され、公衆の面前で屈辱を受けた。市と県庁に何度も抗議に行ったが追い払われたため、テレビン油を身体にふりまいて火を放った。そのニュースをきいた人々が県庁前で抗議し、翌日18日には労働組合員や政権への反対者が抗議に加わった。チュニジア中部では経済(主に農業)の不振がつづき、高学歴でも職がない。ルポの中で引用された教員組合員によると、みんながブアジジの悲劇に自己を同一化したのだという。イスラム教において、自殺は禁止されている。焼身自殺にいたったブアジジの無に帰された存在、屈辱感と絶望を自らに重ねた民衆の怒りが爆発し、貧しい人々も中産層も路上に繰り出したのだ。ブアジジは1月5日に亡くなった。なお、ベンアリは、カスリーヌなど蜂起が広まった貧しい地方の町に治安警察隊を送って市民を射撃し、全国で二百人以上が殺害された。

2011/2/7 飛幡祐規(たかはたゆうき)


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